かつて、郊外や山野などで見られた樹木に咲く花々が、開発や整地などで減少しているのだが、それらが都心地の街路樹などとしてよみがえり、かえって、そちらの方で多く見受けられるのだ。

例えば、桜に先んじて咲くモクレンやコブシは、都会の街並みに列をなして彩りをもたらす。
確かにそれらは、人工の飼い慣らされた自然に過ぎないかもしれないが、もはや木造建築すら少なくなったコンクリートジャングルの地に、季節の風情をもたらしているのは事実だ。

しかし、山野や田園を背景としないそれらは、いささか唐突ではある。とりわけモクレンは、いきなり花開くようなところがあってその感が強い。枯れ枝のような街路樹が、気がつくと、大ぶりで結構派手な花々を付けているのだ。
都会というところは、人の有機的な繋がりを断ったところで成立している面がある。歴史的にいえば近代化の波が押し寄せた折、もう少し近いところでは高度成長などが叫ばれた折に、農山村などの生産性の低い地域からから、その地域共同体との有機的な繋がりを断ちきって出てきた人々が、都会を肥大させ続けてきた。

かつて山野で咲いていた花々が、街路樹としてよみがえるのは、そうして有機的な繋がりを喪失した人々に残るかそけき郷愁に対する、擬似的な慰撫の装置なのかも知れない。
あるいは、都会そのものがかつての自然の山野を蚕食して出来上がったことを考えるとき、それはまた、その地の霊を鎮めるための献花の儀式であるのかも知れない。

写真はいずれも名古屋の東区で撮ったものである。
地下鉄・高岳駅の周辺にはこれらの街路樹が多く、また寺も多い。
黄昏はじめた花の下を通り抜けながら、「春宵一刻値千金」という言葉を思い出した。
都会の夕刻、車のブレーキランプが次第に色濃くなる中では、この言葉の柔らか味はいささか損なわれるのだが、それも致し方あるまい。